森ビル株式会社

6.再開発組合設立

1)事業保証

再開発組合の設立、事業認可に向かうことは地元にとっても大きな希望であり決断でした。当時はバブル崩壊の過程であり、崩壊の底を打ったと言われながらも、地価の下落や賃貸料の下落は続いていました。当地区において最初のモデル権利変換を示したのは平成3年でした。土地評価のベースは相続税路線価を用いました。現在振り返ると、その平成3年は公示地価のピーク、その後毎年毎年土地評価が下落し、平成5年、平成7年とモデル権利変換を示すたびに地元の失望をかっていました。しかしこのバブルの崩壊の過程で、何のために再開発をする必要があるのかという本質の議論をすることができたと言えます。地元に声掛けを始めた当時、まさにバブルの時期でした。
よく聞かれたのが、「アークヒルズ竣工時の賃貸条件がいくらで、竣工から2年経った今の条件はいくらなのか?では、この地区が完成する頃にはもっと高い賃料が取れるな。」といった反応で、一億総不動産屋と言われた時代の余波が残っていた時代でした。儲かるから再開発をやるという意識で進めてきた人が多かったのです。
最初の良い条件から次第に条件が悪くなってきて、それでも再開発をやるのか、何のために再開発をするのか、安全な街をつくり、子孫にいい資産を残すために、今示されている条件で再開発を進めるか、このままの状態でいるほうがいいのか、その判断を下すことが迫られました。一方、デベロッパーとしての森ビルも地元から決断を迫られることになります。
再開発組合設立即ち再開発事業の認可となればもう後戻りは出来ません。再開発法は再開発事業が進行過程において万一事業的に立ち行かなくなった場合、その事業を完遂させるために都道府県知事による事業代行制度さえ用意しています。それゆえ、組合設立にあたっては森ビルに対して事業費負担の保証と権利変換率の保証を強く求められました。
平成8年(1996)2月に個別の画地評価と権利変換が示された後、役員会では再開発組合設立の必要性では一致していましたが、森ビルが事業費や変換率を保証してくれるのかどうかが大きな議論の焦点になっていました。しかし、土地価格も賃貸条件もまだ下落傾向にあり、再開発組合が設立されていない時点でそれらの保証を約束することは森ビルにとっても大きな決断が必要でした。結論は定期総会の森ビル森稔社長の挨拶まで持ち越されました。

平成8年6月7日の再開発組合の第8回総会。平成8年度中の再開発組合設立を目指す事業計画を承認。理事長である森稔森ビル社長は総会後の挨拶で「今こそ事業をスタートさせる時。年内に再開発組合の設立ができるように皆様が森ビルを信じて任せていただけるなら、事業費の調達、保留床の買受け、個別権利変換の確保を約束します。」と宣言し、組合設立に向かって大きく踏み出しました。

2)同意率

再開発組合設立の申請を行うための決議総会を年内に開催する準備を進めようとしたところ、再開発組合を設立するためにもう一段地元の同意を高めて欲しいという行政の指導がきました。この地区はもともと準備組合を設立する時点で300件のうち80%の人が準備組合に加入していました。ここで言う300件というのは、意思決定の単位です。一件一件は親子や夫婦の共有者がいて、所有者数としては400人以上いましたが、意思決定単位として使っていたのは300件という件数でした。準備組合設立時点での加入率が80%、都市計画決定時点での加入率が90%、そしていよいよ組合設立。通常であれば、この時点で90%というのは大変高い率です。都市再開発法は3分の2以上、67%以上の同意があれば再開発組合設立を認可することが出来るとされています。ただ、当地区の90%の賛成は逆にいうと10%、30件賛成していない人がいることを示しています。通常の規模の再開発であればそのまま全組合員数になるような数です。そのために出来るだけ同意率を高めてほしいというのが行政側の意向でした。
再開発力呼びかけからすでに10年、この段階で同意を得られていない人にはそれなりの事情があり、地区内では再開発組合設立阻止に向けて「反対の会」の活動も活発化していました。「かわら版」は25号を超え、行政に対しても盛んに組合設立反対を訴えていました。
同意率を高める作業は困難を極めました。何度も足を運び、一つーつ不安や問題に応えていきます。約10件、3%加入率を上げ、再開発組合設立認可申請に向けて具体的な手続に入っていく旨を決議したのは翌平成9年(1997)4月23日の第10回総会でした。
その総会で承認を受けた再開発組合の定款案と事業計画案に対する同意書集めが総会後開始されました。同意書には本人確認のために印鑑証明が必要。しかも今度は意思決定単位ではなく、全所有者、共有者が対象となるため、人数も多い。印鑑登録をしていない方に印鑑登録をしてもらったり、相続で未成年者が所有者になっている人には法定代理人を立ててもらい、海外在住者には領事館でサイン証明を取得してもらいました。最終的に集めた同意書は399通。

3)組合設立認可申請

平成9年9月5日には準備組合の常任理事が再開発組合の設立発起人となり、港区に対して市街地再開発事業の施行地区となるべき区域の公告を申請。9月17日には港区により公告がなされ、再開発組合設立手続の第一歩が踏み出されました。
再開発組合設立認可申請決議を目的に11月26日に第12回総会を開催したが、総会前に開催した全権利者対象の説明会は未加入者の出席により議論が白熱。午後6時から開催した説明会には未加入者を含め151名が出席、定款案、事業計画案、事業保証に関する森ビルとの協定書について説明後、意見交換、質疑応答に入りました。未加入者からの相次ぐ質問に答える中、加入者からも未加入者に対して再開発事業への理解と参加を呼びかける発言が繰り返されました。途中、組合員からは説明会の打切り、総会開催の要望も何度か出されましたが、司会の原保常任理事は「やっと実現した未加入の方々との話し合いの場。出来る限り時間を設けて意見交換したい。」と、途中休憩をはさみながら会を継続。午後10時まで4時間にわたる会合となりました。
予定の午後7時開催を大幅に遅らせて午後10時から開催された総会には組合員のほとんどが席を立たずに出席。未加入者も傍聴する中で開催されました。総会では事業計画案、定款案、森ビルとの事業保証に関する協定書などの締結を承認しましたが、予定されていた「再開発組合設立認可申請に関する決議」に関しては説明会での議論の内容を踏まえ、日を改めて審議することとなり、1週間後に急減臨時総会を開催することとなりました。
12月2日の第13回総会には急な開催にもかかわらず110名を超える組合員が出席。待望久しい再開発組合設立認可申請を行うことについて満場の同意で決議しました。
その後、公共施設管理者の同意などを取得、組合設立認可申請を窓口となる港区に提出したのは年が明けて平成10年(1998)1月27日。
なんとか認可申請し、春には設立認可が下りてくると期待し、準備を進めていましたが、なかなか認可は下りません。春が過ぎ、梅雨が過ぎてもまだ下りません。認可が下りたら30日以内に設立総会を開催しなければなりません。設立記念パーティの準備や準備組合の解散総会もすぐに開かなければなりません。事務方は認可の下りる日を固唾を飲んで待ちつづけました。いつ下りるか分からないので誰も夏休みが取れません。お盆が過ぎてもまだ下りず、結局認可が下りたのは申請から8ヶ月後の平成10年9月16日。
平成8年6月の総会で森稔理事長が「年内の組合設立」を呼びかけてから、また2年以上が経過していました。

4)組合総会、設立パーティー

平成10年10月6日、再開発組合の設立総会が開催されました。総会で役員が選任され、理事の中から常任理事や理事長が互選されました。再開発組合の理事長には前述のとおり原保さんが選任されました。副理事長にはテレビ朝日の川池一男取締役、ハリウッド株式会社の山中祥弘取締役に加えて石井源太郎さん、谷澤敏允さんが選任され、森ビルの森稔社長は新たに設けられた特別顧問に就任しました。 それまで理事長を務めていた森ビルだが、事業実施段階において参加組合員となることが確定しており、組合員としての立場とデベロッパーとしての立場が利益相反することを懸念して再開発組合の理事長には就任しないこととなりました。原保さんが理事長の重責を引き受けるにあたって出した要望が新規に2人の副理事長が就任することの追加でした。これから具体化する権利変換計画の作成にあたって法人代表の2社だけでなく個人を代表する形で常任理事の石井さんと谷澤さんを副理事長に加えてほしいというものです。再開発組合は10月19日臨時総会を開催して定款変更を行い、その体制を整えました。 10月19日の臨時総会後、東京全日空ホテルにて組合員を始め、議員・行政関係者などの来賓総勢390名の出席で再開発組合設立記念パーティーが盛大に開催されました。原理事長に次ぐ挨拶の壇上で森稔森ビル社長は感極まり立ち往生します。数秒間言葉が出ない。体調でも悪くしたのかと参加者が心配し始めた頃、森稔社長の涙に気づきます。 常に楽天的で積極果敢な森稔社長ですが、こと六本木の再開発については思い入れが強い。六本木六丁目の権利者の前で挨拶するときは涙もろくなります。この後、工事の起工式、竣工式と節目の式典の挨拶で言葉を詰まらせてしまいます。

6)池保存の請願

一方、テレビ朝日敷地を中心とする地元への再開発の呼びかけは近隣住民から思わぬ反響を得ることになります。昭和62年の春から夏にかけて近隣住民の中からテレビ朝日敷地内の池を残す陳情の動きが起こってきました。テレビ朝日敷地内の東側寄りにニッカ池と呼ばれている1,000m²程の広さの池がありました。この池を再開発後も残してほしいという趣旨の動きでした。
この地周辺は古くは江戸時代に長府藩毛利家の上屋敷内にあり、元禄15年(1702)の赤穂浪士の討ち入り事件の折には浪士47人のうち、10人が毛利家にお預けになり、翌元禄16年2月4日、敷地内で切腹を命じられたといいます。また、嘉永2年(1849)この屋敷の侍屋敷で乃木希典、後に明治の名将と言われた乃木大将が生まれ、9歳までを過ごしています。そのようなことから池周辺は東京都から毛利甲斐守邸跡と乃木大将誕生地の2つの旧跡に指定されていました。明治以降、中央大学の創設者増島六一郎氏からニッカウヰスキー、テレビ朝日へと所有者が移り、ニッカウヰスキーの東京工場時代に池のほとりに植えられたソメイヨシノが見事に育ち、桜の名所となっていました。私有地ゆえ、普段は自由に敷地に入ることは出来ませんでしたが、テレビ朝日は桜の季節になると近隣の方々を招待しての観桜会を催し、近隣住民に喜ばれていました。
そのテレビ朝日敷地の再開発の動きを聞き及んだ近隣住民が、再開発によって池と桜が無くなるのではないかと心配し、署名を集め始めました。その署名は昭和62年9月12日「長府毛利邸跡地保存整備に関する請願」として港区役所に受理され、10月28日港区文教常任委員会にてその趣旨が採択されました。そしてその趣旨はやがて港区の再開発基本計画、事業推進基本計画と受け継がれ、再開発事業の事業計画に生かされていきます。

六本木六丁目地区市街地再開発組合設立総会
六本木六丁目地区市街地再開発組合設立総会
設立パーティー(平成10年10月19日)
設立パーティー(平成10年10月19日)