六本木ヒルズ:開発経緯詳細
1.地元への呼びかけ
1)テレビ朝日、森ビルの出会い
昭和50年代から本社建替えを検討していたテレビ朝日は港区に相談。港区からはテレビ朝日の敷地だけでなく周辺を含めての再開発を検討してはとの示唆を受けました。そこでテレビ朝日は当時アークヒルズの計画を進めていた森ビルに相談。両者でテレビ朝日敷地周辺の再開発構想を検討することになりました。テレビ朝日は昭和59年(1984)に着工したアークヒルズの中にスタジオを取得。そのアークヒルズが昭和61年(1986)4月に竣工し、「24時間都市」「全環境都市」のキャッチフレーズのもと、複合都市型再開発としてその年の流行語大賞にも取り上げられるほどの成功を収めました。次はテレビ朝日本社周辺再開発が大きな課題であるということはテレビ朝日、森ビル両社の共通認識でした。
2)地元の反応
昭和61年(1986)11月、東京都が都市再開発方針の中で六本木六丁目地区を「再開発誘導地区」に指定したことをきっかけにテレビ朝日と森ビルは地元への呼びかけを始めました。「テレビ朝日の建替え計画にあわせて一緒に再開発をやりませんか。」と、テレビ朝日と森ビルの社員が2人1組で、挨拶文を持って周辺の方々に一軒一軒声を掛けて回りました。ところが折り悪しく、昭和61年という年は流行語大賞の中に「アークヒルズ」と並んで「地上げ」という言葉が取り上げられるほど地上げの嵐が吹き荒れた年です。最初の訪問の反応はかなり厳しいものでした。
お宅に伺って「再開発を一緒にいかがでしょうか?」と話をしても、買収にきたのかと勘違いされ、最初に返ってくる言葉は「いや、うちは売らないよ。」「周りには何十件もあるのだから話をしにくるのは最後にしてくれ。」と冷たい反応。中には何回通ってもご主人に会うことすらできない家もありました。平日訪問してもご主人はいらっしゃらない、そこで週末に訪問すると「もうゴルフに出かけました。」避けられているのは明らかでした。
とはいえ、平日会えない人には週末に、昼間会えない人には夜に、呼びかけチームは粘り強く訪問を続け、買収ではなく、共同建替え話を持ってきたのだと理解してもらうよう努めました。最初、玄関ドアでしか話を聞いてくれなかった人が、やがて玄関の中に入れてくれるようになり、徐々に話を聞いてくれる人が増えてきました。話を聞いてくれた人には、まずは再開発事業の基本的な仕組みやメリットの説明から入っていきました。
3)アークヒルズ事例見学
年が明けて昭和62年(1987)の春頃になると再開発事業の事例としてアークヒルズを見学してくれる人が少しずつ出て、ここがアークヒルズの再開発と六本木ヒルズの再開発の初動期における大きな違いでした。森ビルがアークヒルズの再開発に取り組み始めた頃はまだ再開発事業の事例も少なく、ましてや事務所宅、ホテルなどの複合再開発は前例の無い、前人未踏の道を歩くごとき状態でした。六本木ヒルズの初動期において、身近な事にしてアークヒルズの再開発で出来た高層住宅を見学し、広場や道路などの空間を体験してもらえたことは再開発そのもののイメージに大いに役立つと共に、再開発事業に参加して住宅を取得することができる、つまり資産を売却せずに住み続けることが出来るのだということを実感として理解してもらうことが出来ました。
4)公団日ケ窪住宅の反応
また、昭和62年からは地区内にあった公団日ヶ窪住宅への説明会が始まりました。
公団日ヶ窪住宅は前述のように昭和33年分譲の団地であり、再開発の呼びかけを始める数年前から建替えの検討が始められていました。
約2,580坪の敷地に5階建ての5棟の建物がゆったりと並び、窓際にはプランターが設置されているような、分譲当時は高級住宅として憧れを集めた住宅も、築25年を経る頃には設備の老朽化やエレベーターの無い不便さで改修工事では解決できない問題を抱えるようになっていました。
昭和54年から56年にかけ管理組合の中に特別委員会を設け116戸中111戸の賛成を得るところまで行ったが、区分所有法施行前であり、全員同意が原則であったため計画を断念した経緯がありました。
その後も建替え計画が具体化せずにいたところに再開発の呼びかけ。「単独建替えでもなかなかまとまらないのに周辺の戸建住宅も含めた再開発となると更に時間がかかるのではないか」と公団日ヶ窪住宅内には不安が走りました。縁あって森ビルが5棟の内1棟を所有者の法人から購入し、116戸中15戸を所有することになったことも地元の反発を招くことになります。デベロッパーがインベーダーのごとく侵入してきたという心理的な面と、区分所有者となって単独の建て替え決議を拒否し、再開発以外の選択肢を封じる手段にでてきたと捉えられたのです。勢い公団日ヶ窪住宅の所有者たちの再開発に対する視線は批判的で、冷たい反応が多かったのです。
そんな中、当時の管理組合の理事長が「一度きちんと再開発の話をみんなで聞いてみないと判断がつかないだろう。」と説明の場を設けてくれました。第1回は昭和62年2月28日にテレビ朝日の会議室で開催されました。
その後、公団日ヶ窪住宅内には6月に「日ヶ窪住宅を考える会」という任意のグループが結成され、どちらかというと再開発に批判的なトーンでの団体交渉のグループとして活動することになります。テレビ朝日と森ビルは主にそのグループを交渉窓口として8月、10月、12月と説明会を開いていきます。
5)連絡事務所開設と会報発行
昭和63年(1988)になるとテレビ朝日と森ビルは、より一歩踏み込んだ地元への説明の必要性を感じ、南側住宅地の中に事務所を借りて常駐者を置くことにしました。2月15日連絡事務所が開設され、疑問、質問のある人はいつでも訪問してくださいと案内しました。とは言っても最初はなかなか訪れてくれる人はいません。
また、それまで担当者が個別に資料を持って相手の事情、都合に合わせて戸別訪問していましたが、呼びかけから1年半を経て、地域の方に同じ情報を同じタイミングで伝える必要性を感じ、再開発の情報や地元の声を掲載した地元向けのミニコミ紙を発行することにしました。
このようなミニコミ紙はアークヒルズの再開発でも「赤坂六本木地区だより」として発行されていた経緯があります。4月5日、「六本木六丁目地区だより」、通称「ろくろくだより」と名づけられたミニコミ紙の創刊号が発行されました。編集の柱として掲げられたのは以下の4点。
- 地元の皆さんに関係あるニュースや話題を盛り込み楽しいコミュニティ作りに寄与する。
- 都市再開発に関する理解と認識を深めるためにその仕組みや手順などを解説し、また質疑応答などにより、豊かな街づくりを考え、推進するための資料を提供する。
- 森ビル・テレビ朝日の企業姿勢、街づくりの理念を正しく伝える。
- 地元の皆さんのご意見を掲載し、また、行政からの情報を正しく伝達して、望ましい街づくりについて考える場とする。
この会報は毎月2回発行され、郵送ではなく、必ず各戸に訪問して手渡しすることを原則としていました。当然、テレビ朝日と森ビルの担当者は少なくとも2週間に1回は全権利者を訪問することになり、地元の方々への訪問頻度、説明の機会は格段に増えることとなりました。結果として地元情報の共有と再開発への理解を深めてもらうために大いに役立ちました。
この「ろくろくだより」は準備組合の「会報ろくろく」、再開発組合の「ろくろく再開発ニュース」へと引き継がれていくことになります。
6)池保存の請願
一方、テレビ朝日敷地を中心とする地元への再開発の呼びかけは近隣住民から思わぬ反響を得ることになります。昭和62年の春から夏にかけて近隣住民の中からテレビ朝日敷地内の池を残す陳情の動きが起こってきました。テレビ朝日敷地内の東側寄りにニッカ池と呼ばれている1,000m²程の広さの池がありました。この池を再開発後も残してほしいという趣旨の動きでした。
この地周辺は古くは江戸時代に長府藩毛利家の上屋敷内にあり、元禄15年(1702)の赤穂浪士の討ち入り事件の折には浪士47人のうち、10人が毛利家にお預けになり、翌元禄16年2月4日、敷地内で切腹を命じられたといいます。また、嘉永2年(1849)この屋敷の侍屋敷で乃木希典、後に明治の名将と言われた乃木大将が生まれ、9歳までを過ごしています。そのようなことから池周辺は東京都から毛利甲斐守邸跡と乃木大将誕生地の2つの旧跡に指定されていました。明治以降、中央大学の創設者増島六一郎氏からニッカウヰスキー、テレビ朝日へと所有者が移り、ニッカウヰスキーの東京工場時代に池のほとりに植えられたソメイヨシノが見事に育ち、桜の名所となっていました。私有地ゆえ、普段は自由に敷地に入ることは出来ませんでしたが、テレビ朝日は桜の季節になると近隣の方々を招待しての観桜会を催し、近隣住民に喜ばれていました。
そのテレビ朝日敷地の再開発の動きを聞き及んだ近隣住民が、再開発によって池と桜が無くなるのではないかと心配し、署名を集め始めました。その署名は昭和62年9月12日「長府毛利邸跡地保存整備に関する請願」として港区役所に受理され、10月28日港区文教常任委員会にてその趣旨が採択されました。そしてその趣旨はやがて港区の再開発基本計画、事業推進基本計画と受け継がれ、再開発事業の事業計画に生かされていきます。