森ビル株式会社

1.2003年2月13日再起動式典

森ビルは中国において、これまで大連に1棟、上海に1棟のオフィスビルを完成させている。その中国プロジェクトの集大成ともいうべきものが、この「上海環球金融中心」である。その再起動式典が、2003年2月13日、快晴の天気のもと、上海市浦東新区陸家嘴地区の建設現場において、上海市の市長と副市長の出席のもと盛大に執り行われた。翌日には、中国・日本のみならず、欧米のマスコミにも取り上げられ、「世界一高いビルの工事再開」といった趣旨の記事、ニュースが世界中に配信されたのである。
1995年にスタートしたこのプロジェクトは1998年の秋に一度中断を余儀無くされていた。4年半にわたる中断期間中には、良くも悪くもさまざまな報道がなされてきた。しかし、その中断の裏には、森ビルの、経済環境などを冷静に見据える目と、勇気ある決断があった。
中国政府が開発に力を注ぐ上海市浦東(ほとう)新区・陸家嘴(りっかし)金融貿易区。ここに世界最高レベルの国際金融センターを建設すべく、森ビルグループが、日本を代表する金融機関、商社などとともに取り組むプロジェクト。それが「上海環球金融中心」である。

2.1993年プロジェクト前夜

森ビルと中国との関わりは1993年に遡る。当時の日本はバブル崩壊後の傷がまだ生々しく、国内での閉塞した状況を打破すべく各企業の模索が続いていた時期であった。一方中国は、天安門事件の記憶が薄れるのと時を同じくして、改革開放政策が急激に加速し、各都市は競うように海外からの投資を誘致し、第2次中国投資ブームが始まらんとする状況であった。その中で「北の香港」を目指すのが大連であり、国家級の開発区として中国の威信をかけて開発に取組む上海の浦東新区であった。
森ビルの中国進出は、東京の森ビルの物件に大連市駐日本経済貿易事務所がテナントとして入居していた関係で、当時の大連市長が森ビルを訪れ、その折、森ビル社長に大連進出を要請したことを契機として始まった。日本の不動産市場はバブル崩壊による地下下落が顕著になり始めた時期で、国内の不動産事業の先行きは非常に不透明であった。そんな状況の中、森ビルが事業戦略として海外進出の検討を始めた時期と大連市長の要請はちょうど合致したのである。

3.不動産ビジネス未開の地で

大連市長の要請を受けた森ビルでは、リサーチを始めた。日本で調べてみると、大連には1992年に設立された日中合弁大連工業団地があり、すでに大小合わせて200社を超す日系企業が進出していることがわかった。また、市内にはいくつか立派な外観のオフィスビルが建っているのが資料上からは見て取れた。当初は街としてある程度のレベルに達しているかのようなイメージを受けた。しかし、現地にスタッフを派遣して調査をしてみると、実情はまったく違うものであった。ほとんどの企業はホテルの客室を改造して事務所として使用していて、執務環境としては日本とは比べものにならない劣悪なものであった。
その頃大連にあったオフィスビルは外国資本ではなくすべて中国資本によるものであった。そのため、外見は見よう見真似でそれらしい建物になっていても、設備や管理などソフトについての先進的なノウハウがまだ導入されておらず、国際スタンダードからはかけ離れたもので、とても外資系テナントが耐えられるものではなかった。そのため、多くの企業は、ハード上の不便に目をつぶってでも、ソフトの面で安心できる外資系ホテルの部屋を改造して入居することを選んでいたのである。

4.大連での成功が生んだジャパン・ビレッジ

大連でのプロジェクトは用地の選定こそ候補地があまりに多く、慎重を期したが、大連市の全面的な協力もあり、順調に進行した。1994年3月に事業決定、4月に土地契約調印、5月にプロジェクト実施申請、6月には現地法人設立申請までこぎ着けた。そして9月には着工され、1996年10月には竣工した。こうして完成した「大連森茂大厦」は当時の森ビルのスペックをそのまま持ち込んだ地上24階地下2階建てのインテリジェントビルとなった。
このビルには、現在、銀行・商社・保険・メーカーなどをはじめ100社近くのテナントが入居しているが、竣工後10年以上経過した現在でも、“大連で最もグレードの高いオフィスビル”という評価は不動である。「大連森茂大厦」のテナントに占める日系企業の比率は60%以上にもなる。多くの日系企業がテナントとして入居することにより、周辺に日本料理のレストランなどが集まり、このエリアは、さながらジャパン・ビレッジのような様相を呈している。

5.既成市街地か不毛の地か

森ビルは大連進出とほぼ同時期に上海進出の検討を始めた。上海は1920年代にイギリス、フランス、アメリカなどが競って租界を設け、国際的な経済の要衝として海外からの資金と人を受け入れ、「魔都」と称されるほどの繁栄を謳歌した歴史を持つ国際都市である。上海市は市の中心を流れる黄浦江を挟んで、西側が浦西地区、東側が浦東地区と呼ばれ、浦西地区は古くからその中心をなす既成市街地である。一方、浦東は、中国政府によって壮大な計画は発表されていたが、当時は、造船所や工場、農家や工場労働者の住宅が点在するだけの「不毛の地」であった。
森ビルが上海への進出の検討を始めた当時、最も議論となったのは、その土地選定にあたって、浦東か浦西かという問題であった。その頃からすでに香港などの華僑による不動産投資は始まっていたのだが、彼らの投資先は一様に浦西であって、「浦東などありえない」という考えが大勢を占めていた。当然のように森ビルも、まずは浦西の案件を検討したのだが、人治国家といわれる中国のこと、人脈も地縁もない森ビルに良い物件が紹介されるはずもなく、華僑の物件と比べると、そもそもの立地からしてすでに競争力で劣ると思わざるを得ないものばかりであった。

6.魅力的なグランドデザインへの賭け

実は、浦西地区の候補物件よりもさらに劣るかと思われたのが、浦東新区の陸家嘴地区にある現在のプロジェクト地である。資料を手に紹介された現場を見に行ってみると、民家が密集して住民が普通に生活しており、敷地形状どころか、将来の道路の位置すら定かではない状況であった。
だが一方で陸家嘴地区のグランドデザインの構想は非常に魅力的であった。浦西は古くからの市街地ゆえに、片側一車線の道路がほとんどで、渋滞がひどく、将来訪れるモータリゼーションの波に対応することができないのは明白であった。対して陸家嘴地区の計画は、100m幅の幹線道路を中心とした非常に合理的な道路交通網のみならず、1.7km²のエリアを中心地区と東西南北の5つのエリアに分け、100階建てクラスのスーパー超高層3棟と10万m²に及ぶ公園を中心に据え、それを取り巻くようにして東西南北地区に50階建てクラスの超高層ビル群を配する世界でもこれまでにない先進的かつ理想的な未来都市の像が描かれていた。また、その地域を金融貿易区として国際的なビジネスの中心に据えるというビジョンについても、ディベロッパーである森ビルにとっては将来に期待を抱かせるものであった。

7.上海プロジェクトいよいよ始動

森ビルでは、1994年に上海への投資を決定。その1棟目となる地上46階地下4階の「上海森茂国際大厦」が竣工したのが1998年4月である。2000年11月、このビルは名称を「上海森茂国際大厦」から「HSBC(香港上海銀行)大厦」に変更している(2010年11月より、名称は恒生銀行大厦に変更〉。これは香港上海銀行(HSBC)がアジア本部を香港から上海に移すにあたり、床の一部を譲渡することになったのだが、ビル名称として彼らの名前である「HSBC」を冠したいという強い要望があったため、フロアに加えて「ビル名称権」を譲渡したのである。このことは香港上海銀行が、このビルスペックをこの上なく高く評価したことを意味している。このビルに入居しているテナントは、HSBC、日系の有力企業のみならず、欧米の一流企業がキラ星のごとく並ぶ、日本では考えられない夢のようなラインナップになっている。
一方、「大連森茂大厦」「恒生銀行大厦(Hang Seng Bank Tower)」に続く中国プロジェクトの集大成となる「上海環球金融中心」は重大な局面を迎えていた。

8.「上海環球金融中心」工事中断へ

「上海環球金融中心」のプロジェクトは、森ビル株式会社が中心となって、1995年11月に中国法人「上海環球金融中心有限公司」を設立し、同年12月に上海市浦東新区陸家嘴金融貿易区Z4-1の土地使用権を取得したのが始まりである。その後、1996年2月に方案設計(基本設計)審査批准、1997年3月に拡大初歩設計(詳細設計)審査批准を得て、1997年10月より清水建設の施工にて鋼管杭の打設を開始し、1998年8月に総数約2,000本の鋼管杭打設が完了した。ちなみに当時の計画案は、高さ460m、地上94階、延床面積338,000m²であった。
しかしながら当時は、1997年のアジア通貨危機に端を発した経済状況の激変期であった。また、上海の不動産市場ではオフィス供給の急激な増加に対し需要が停滞したことにより、オフィスの空室率が上昇し、そのまま事業を継続して大規模オフィスが供給されると、マーケットに混乱を招くのは必至の状況であった。そこで森ビルでは思い切って工事を一時中断し、「上海環球金融中心」の全体計画およびビルスペックを根本から見直す決断をした。

  • 上海環球金融中心プロジェクト年表
  • 1994年9月:土地使用権譲渡契約締結
  • 1995年11月:中国法人上海環球金融中心有限公司設立
  • 1996年2月:方案設計「上海環球金融中心設計方案批複」受領
  • 1997年3月:拡大初歩設計「上海環球金融中心拡大初歩設計批複」受領
  • 1997年10月:鋼管杭打設工事開始
  • 1998年7月:鋼管杭(約2000本)および構真柱(199本)打設完了
  • −工事中断、設計変更検討作業開始−
  • 2003年2月:再起動式典
  • 2004年1月:山留工事着工
  • 2004年11月:メインコン調印式
  • 2005年10月:上海、東京 施設計画決定プレス発表会
  • 2006年10月:施設運営会社(展望台・カンファレンス、ホテル)2社設立
  • 2008年8月:竣工

9.綿密な設計変更作業そして工事再開

その設計変更作業は4年半にわたり、晴れて再起動式典を行い杭打設工事が再開できたのは前述のように2003年の2月13日だった。その間、1998年7月に上海浦東新区に竣工した「HSBCタワー(旧上海森茂国際大厦)」での経験をフィードバックすることができ、また2003年4月に開業した六本木ヒルズを参考にして、21世紀のグローバルスタンダードに合致したオフィスビルスペックを備えることができた。またこの設計変更期間中にはニューヨークの国際貿易センターにおいて世界を震撼させるテロ事件が発生しているが、その事件をも教訓として、考え得る最高水準の安全性を追求し、先進的かつ合理的なシステムを構築、防災計画、警備体制についても、最大限の安全性を備えるべく計画を再検討した。
2005年10月18日には上海、19日には東京と、日中両国で2回のプレス発表会を行った。世界を代表する国際金融センターとしての機能だけではなく、都市としての賑わいや魅力の向上を目指して詳細な検討を重ねた、オフィス、ホテル、商業施設、展望施設、カンファレンスなどの施設計画を全世界に向けて発信した。今回発表したタワーデザインの特徴は、タワー上部にある台形の開口部である。風圧の軽減に大きく寄与するのに加えて、地上472m(地上100階)に長さ約55mの展望廊下を設置することが可能となり、来訪者の方々に上海のダイナミズムを実感してもらえる展望施設の設置が可能となった。以前は開口部が円形だったが、今回のデザイン変更は見た目だけでなく、工法上ではより合理的に、またコスト面ではより経済的なものになった。
10月18日の上海HSBCタワー内会議室で開催された会見では、政府関係者のご臨席のもと、約60社、86名もの多数のプレスが集まった。上海での記者説明会の翌日、19日の東京でのプレス発表では、中華人民共和国公使にもご挨拶していただいている。そして、2006年10月には展望台とホテルの運営会社2社を設立し、竣工後の施設運営の体制を着々と固め、営業活動の基本計画を練っている。中国政府ならびに上海市政府の大いなる支援のもと進行するこのプロジェクトは、2007年9月14日に予定通り上棟を迎え、地上492mの偉容が上海の至る所からはっきりと見えるようになり、竣工に先駆けて早々とオフィスのアンカーテナント決定が発表された。また、世界最高の高さに位置する“パークハイアット上海”開業のプレスリリースも全世界に配信された。2008年、北京オリンピック開催に先駆け、国際都市・上海の未来を象徴する新たなランドマークの誕生がすぐそこに迫っていた。

10.2008年8月28日「上海環球金融中心」始動

2008年8月28日、中国の国内外から集まった500人を超える報道陣を前に、環球金融中心のオープニングプレス発表会が行われた。世界の目を中国に釘付けにした北京オリンピックの閉幕から4日目のことである。そして、1994年の事業決定からは、実に14年目のことであった。
地上101階、高さ492mのこのビルは、アンテナを含めると台湾の台北101ビルに譲るものの、CTBUH(世界高層ビルディング協会)より「最高フロア高さ」と「軒高」の2点で世界最高の認定を受けている。またのちに2008年度の世界最優秀高層ビルとして、同協会からアワードも受賞した。
オフィスの開業に続いて8月30日には、「世界最高のフロア高さ」に位置する展望台がオープンした。開場時間は午後2時であったが、当日の朝6時から列ができ始め、当日の入場者数は4000人以上に達した。
2005年10月に、森社長が内外のプレスに向けて行った会見での公約どおり、環球金融中心は2008年に竣工を迎えることができた。しかしながら、工程管理の難しい中国で、プロジェクトをスケジュール通りに完成させるのは、並大抵のことではなかった。それを実現させることができた原動力は、まずなによりも関係者のチームワークであったと思う。
「世界一のプロジェクトを実現させる」という、ゆるぎない信念のもと、このプロジェクトにかかわった者たちの情熱と夢が、国籍、言語、利害を超えて結実した成果である。完成までの道のりは、本当に長く険しいものであったが、このプロジェクトに関わった皆が同じ思いを共有していたからこそ、乗り切ることができたのだと思う。
しかし、我々の最終目標はビルの完成ではない。今後ビルを利用する方々、入居していただくテナントの方々にいかに満足していただくか、がこのビルの最終的な評価につながる。今なお成長を続ける上海のランドマークとして、世界中から人をひきつける「グローバルマグネット」、いわゆる「磁場」であり続けたいと願っている。そのためには、このビルの魅力を少しでも多くの方に体感していただけるよう、引き続き努力をしていきたい。

多くの人で賑わう展望台
多くの人で賑わう展望台
オープニングプレス発表会の様子
オープニングプレス発表会の様子