森ビル株式会社

限界への挑戦を繰り返して築き上げたもの(第1回)

2010年10月01日

今月のゲスト:長野五輪スピードスケート金メダリスト 清水宏保さん

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長野オリンピックスピードスケートで金メダルと銅メダル、ソルトレークオリンピックでも銀メダルを獲得した清水宏保さん。日本ではマイナーだったスピードスケートという競技を自らの勝利を持ってメジャーの舞台へと引き上げ、2010年3月に引退を宣言してからも、後輩への指導や後援会やイベントへの出席を通じてスピードスケートの素晴らしさを発信し続けています。高身長が有利とされる競技において、小柄な体型や重度の喘息患者であるという一見不利な条件を抱えた清水さんが、金メダリストになることができた理由とは?

第1回 スピードスケートで大成すると心に決めて
小学校のスケート大会では6年間ずっと優勝していた

僕の出身地である北海道の帯広市はスピードスケートが文化として根付いている地域でした。冬になるとマイナス30度まで冷え込むような環境で、僕が通っていた小学校でも六年間スピードスケートの授業があって、冬の運動会はスピードスケートの大会でした。大会では6年間ずっと断トツで1位。そのままなんとなくスケートを続けていた僕が「スピードスケートで大成したい」と明確に意識し出したのは、高校2年生のときでした。
それまでずっと僕の人生にレールを引いて引っ張っていってくれていた父親が亡くなったのをきっかけに、自分自身で目標設定をして生きていかなければいけないんだと意識するようになったからです。そこで改めてスケートを続けていくかどうか迷った末、続けるという決断を下して「続けるならば、最終的にはオリンピックに出たい」という強い意志が芽生えました。

結果を残すために、意識的にピークを作っていた

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スピードスケートを長く続けてきた中で、僕も年間を通していつも成績が一定していたわけではありません。結果を残せなかった試合もあれば、いい結果を残せた試合もある。ひとつずつの試合だけでなく、シーズンという長期的なスパンで思い返してみても、3年間ずっとダメだった時期もあったんです。
でも、オリンピックだけは結果が出せた。それは自分の中で計画性を持って、ピークを作ることを意識していたから。幼少期から、喘息持ちで身長も小さかった僕は、クラスの中で何をやってもなかなか勝てることはありませんでした。例えば100メートル走を10本走るとなったときに、10回勝つことはできない。それでも「1本だけでも勝ちたい」と思って、残りの9本は犠牲にして、1本だけに集中して勝つようにしていたんです。そうして自然にピークの持っていき方を学んでいたのかもしれません。
長い間試合で活躍することができたのも、ずっと勝ち続けてきたわけではなく、狙った試合を必ず勝つようにしてきたから。勝てない期間はトレーニングに費やして、大事な試合で結果を出せるように、色々な実験を繰り返してきたからなんです。

プロフール

1974年、北海道生まれ。1998年9月NEC入社。CSR推進本部社会貢献室在籍。幼稚園からスケートを始める。91年浅間選抜500メートルで日本高校新記録を出し、全日本スプリントで総合4位に入り脚光を集める。以来長年に渡り、世界のスピードスケート短距離界の第一人者として活躍。
長野オリンピック500メートルでは金メダル、1000メートルで銅メダル、ソルトレークオリンピック・銀メダルを獲得。世界距離別選手権500mでは、 1998年~2001年4連覇。2001年大会で34秒32の世界新記録を樹立した。2010年3月5日に現役引退を表明。現在は喘息の啓蒙活動、講演会・イベントへの出演、執筆活動等、文化人として幅広く活躍中。