森ビル株式会社

谷村教授の上海レポート(第1回)

2008年06月01日

今月のゲスト: 谷村新司さん

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「昴」を中国の曲だと思っている中国の人も少なくないとか。80年以上の歴史を持つ上海音楽学院の初の外国人教授に就任した谷村さん。
中国を愛し、中国の人に愛され続けるアーティストが語る、中国、アジア、そして音楽への熱い思いです。

第1回 森ビル 森社長との出会い

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上海音楽学院の生徒達と共に音楽を伝える

こんにちは。谷村新司です。
はじめて上海環球金融中心を見たときは、まだ5分の1程しか建っていませんでした。上海に行くたび、だんだんと高くなり、形がわかってくる様子が浦東を車で走っていると見え「ああ、そろそろなのかな」と思っていました。
森ビル社長の森稔さんとの出会いは、もう随分前のことになります。友人を介してお会いしました。それから折に触れいろいろなお話をする機会をいただいて、ディナーショーなどにもよく足をお運びいただいたり、コンサートにも来ていただいたりしています。2004年に上海大舞台で行われた「PAXMUSICA (音楽による世界平和の意)SUPER」というライブイベントから、大きな支援を頂いております。本当に、森さんを始め、沢山の方々の支えがあって今の自分の活動が順調に続けられていると、いつも感謝しています。

中国大陸に初めてポップスが流れた日

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上海でのステージリハーサル風景

私と中国、特に上海とのお付き合いのきっかけは、1981年に行われた国交正常化10周年の記念行事です。日中の青少年交流の一環で、アリスとして初めて北京に行き、工人体育館という大きな体育館で2日間コンサートをしました。実は、それが中国大陸に初めてポップスが流れた日となりました。日本に戻ってから、アジアへの働きかけを自分たちでやり始めようと決めました。韓国のチョー・ヨンピルさん、香港のアラン・タムさんらとともに、アジア各国をコンサートをして回り、現地の多くのアーティストにも必ず参加してもらい交流を図っていくという活動を、約20年間続けました。そんな中に上海での公演も含まれていました。
中国大陸で初めてアリスのコンサートをしたときのことはよく覚えています。1万人の方がいらっしゃいました。人民服が半分ぐらいと、あとは白い開襟シャツ姿です。僕らがいうコンサートというよりも「音楽鑑賞」というのでしょうか。そういった雰囲気で、整然と1万人の方が音もたてずに待っている状態でした。拍手も胸の前で、大きくもなく淡々とするといった状況でした。そして、メインゲストの席に当時副主席だった鄧小平さんがいらっしゃいました。このままだと僕らが思っているような盛り上がりはにならないなと思ったので、みんなで楽器を持って客席の中に降りていって鄧小平さんの前でパフォーマンスをやったんです。そうしたら、鄧小平さんがまず立ち上がって手拍子を打ってくださいました。その瞬間に1万人が一斉にドーンと立ち上がってそこからはもう、いわゆる日本でやっているようなアリスのコンサートになりました。翌日には、壁新聞で前日のコンサートの様子が伝えられていました。その辺りから「ああ、何か中国との扉が開いたのかな」という気がしてきていました。それから約30年の時を過ごしています。

未来都市のような今の上海

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移り変わる上海の景色に想いを巡らせる

今の中国はといえば、当時の1980年代からは想像もつかないことが起きていますね。日本が50年かかったことを10年でやっている…。1990年頃に上海に行ったときに、みんな「あと10年で絶対日本に追いつくように頑張る」と言っていたのを思い出します。
それから5年くらい経って行ったときに、上海はもうすでにビルがボコボコ建ち始めていて、1990年代後半になると、ホテルで目を覚ますとマンハッタンみたいな景色に変わってしまっている。テレビ塔も建って、未来都市のような空間が浦東のあたりにできていて、それとまた同時に、1、2本裏道に入ると、昔の中国がまだ残っている。その両方が混在している状況で、今経済が非常に発達してきている。だから僕は少し心配しています。シンプルに言うとバブルの状態で、要するにお金で何でもできる、お金で何でも買えるという発想に動いている人がかなり増えてきているということです。一番大切なものを見失っていると、バブルが弾けたときに感覚を修正することが大変になってくる。お金がすべてと思って生きてきた人が、お金がなくなった瞬間にどうなるんだろう。だから僕らが失敗したこと、日本でバブルが弾けて大変になったときのことを、ちゃんと中国の人に伝えなければいけないと僕らは思っています。
音楽は、どの国の人も嫌いという人はいないんです。何語で歌っていようと、感じるものは感じるというのが音楽の一番の力だと思うし、コンサートがあれば行きたいな、チケットを買ってでも行きたいというゆとりができてきた方が、とても増えてきたと実感しています。

プロフール

1971年、堀内孝雄とアリスを結成。1972年3月「走っておいで恋人よ」でデビュー。5月に矢沢透が参加。「冬の稲妻」「チャンピオン」など数多くのヒット曲を出し、1981年に活動停止。ソロ活動としては、「いい日旅立ち」「昴」「サライ」など、日本のスタンダード・ナンバーともいえるヒット曲を世に送り出す。1988年からの3年間はロンドン交響楽団、国立パリ・オペラ座交響楽団、ウィーン交響楽団プロジェクト(V.S.O.P)と共演。長年に渡りライフワークとして続けているアジア諸国のアーティストとの交流、そして若手の育成に貢献し、その発表の場作りに尽力している。
2004年3月に上海音楽学院・常任教授に就任。現代音楽の授業を通して中国の若者たちにPOPカルチャーを伝えるための活動を始める。同年11月、1984年から谷村新司、チョー・ヨンピル、アラン・タムによってスタートしたPAX MUSICA (音楽による世界平和)の20周年イベントとして、「PAX MUSICA SUPER 2004」を中国上海大舞台にて開催。
2005年9月には、その想いを次世代に伝えるために”愛・地球博 アジアPOPフェスティバル「PAX MUSICA NEXT 2005」をプロデュースし、アジアの若手アーティスト達と共演。
2006 年9月にはJR西日本DISCOVER WESTキャンペーンのテーマソングとして、マキシシングル「風の暦」をリリース。同年10月、奈良・東大寺大仏殿前にて「谷村新司 NATURE LIVE〜夢人 ユメジン〜 in東大寺 collaborated with 千住明」を開催。日中の少年少女合唱団と共に「夢人〜ユメジン〜」を初披露。
2007年3月にはカルチャープログラムとして、第一期「ココロの学校〜音で始まり、歌で始まる〜」を東京国際フォーラムにて、ココロの先生として竹中平蔵さん、角田信朗さん、渡辺美里さんをお招きし、3日間にわたり開校。同年4月には5年ぶりとなるフルアルバム「オリオン13」をリリース。同年4月、あいち子ども芸術大学学長に就任。同年5月には国際連合麻薬・犯罪事務局(UNODC)、財団法人「麻薬・覚せい剤乱用防止センター」からの依頼で薬物乱用防止キャンペーンソング「ギーター」を制作。同年9月、マキシシングル「夢人〜ユメジン〜」をリリース。自身初のNHK「みんなのうた」をはじめ、「24時間テレビ30」チャリティーソングなどを収録。同年9月、南京芸術学院の名誉教授に就任。日中国交正常化35周年記念、日中文化・スポーツ交流年の認定事業として開催された大型演唱会「日中携手・世紀同行 2007」in上海、南京を成功させる。