江戸時代の東京

400年前に築かれた東京の原型
徳川家康は、江戸城に入城した1590(天正18)年以降、江戸の街づくりに着手し、13年後の1603(慶長8)年には江戸幕府を開きました。東京の原型となった大都市・江戸はどのように発展したのでしょうか。

現在の東京のもととなった江戸の街づくりを見てみましょう

大江戸成立までの街づくり
天下普請と呼ばれる江戸大改造は、家康の江戸入り後、徳川家4代・約70年にわたって行なわれました。
第1段階(1590〜1603年)家康の江戸入りから幕府が開かれるまでの間。
この時に行なわれたのは、道三堀の開削、平川の付替、本丸の修理、西丸の工事などわずかなものでした。
第2段階(1603〜1615年)幕府開設から豊臣家滅亡までの期間で、徳川家が天下統一を果たす時期。日比谷入江の埋立、江戸前島中央部の外濠建設、江戸城の大拡張工事が行なわれました。
第3段階(1615〜1660年)幕藩体制が確立されていく時期。西丸築城工事、大規模な掘割工事が行なわれ、大江戸が成立しました。
第1段階(1590〜1603年)
第2段階(1603〜1615年)
江戸市街の住み分け(武家地・町人地・寺社地)
第3段階(1615〜1660年)
幕府開設直後、江戸城郭(内濠)内には、本・西丸の防御のため、徳川家一門の大名や直参の旗本屋敷か多数配され、外側は、譜代、外様、旗本・御家人屋敷が続いていました。
さらに外へ向かって順に、武士やその家族の生活物資を供給する町人地と、外敵の侵入に対する防御線ともなる寺社地がまとまって配されました。
明暦の大火(1657年/明暦3年)の後、大規模な都市改造と、それに伴う人口流入により飛躍的に拡大した江戸では、武家屋敷、寺社地、町屋の移転・再編成が行なわれ、ほとんどの寺社地が外濠の外側に移転しました。
江戸時代には、このような都市構造の再編が頻繁に行なわれました。
江戸の大火
約270年続いた江戸時代において、江戸の街は市街の拡大とともに頻繁な大火に見舞われ、その数は約100回にも及んだといわれています。江戸の3大火事といわれる明暦の大火(1657年/明暦3年)、行人坂の大火(1772年/明和9年)、車町の大火(1806年/文化3年)は、当時の市街の姿を一変させました。
これらの大火の後には、都市の再建、および延焼防止を目的とした道路の新設・拡幅、空地や広小路の整備、大名屋敷・寺社仏閣の移転など、大規模な都市づくりが行なわれました。
江戸の3大火事の延焼地域

今日の放射道路は五街道がもとになっています

江戸城の城門と五街道の整備
外郭と内郭からなる江戸城は、濠が渦巻状に巡らされ、防備の役割を果たしていました。一般の町人が出入りできる城門(見附)は、俗に「三十六見附」と言われましたが、実際にはそれ以上あり、日本橋を起点とした五街道(東海道・中山道・奥州道中・日光道中・甲州道中)へと接続する江戸五口(虎ノ門・牛込門・浅草橋門・筋違橋門・四谷門)は、警備上重要とされていました。
江戸の水運
江戸時代において、物流の大部分は水運に頼っていました。江戸城の築城用資材を運び込むための埠頭として整備された江戸前島は、伊豆など近距離だけでなく、関東地方も含む東北地方からの水運の終着地にもなっていました。
当時、「町」は商工業者が集住する生活共同体としての性格をもっており、水路に面した「町」は必ず河岸をもっていました。河岸とは、水路から物を陸揚げする埠頭をもつ場所を指しますか、多くの場合それだけにとどまらず、陸揚げした物資に関する商業活動も行なわれていました。
当時の代表的な河岸には、日本橋の魚市場や神田多町の青物市場がありました。

江戸は水と緑の庭園都市でした

失われた水と緑
江戸は、濠・運河の水と大名屋敷・寺社地の境内地の緑をもつ、豊かな庭園都市でした。水辺は水運のほか、漁や祭事の場、身近なレジャー空間としても親しまれていました。また、大名屋敷は趣向を凝らした庭園を有していました。
しかし、明治時代以降、大名屋敷の官庁や大学への転用や民間への売却により、豊かな緑は次第に失われていきました。網の目のように張り巡らされていた濠や運河も、戦災の瓦傑処理のための埋立や首都高速道路建設によってふさがれ、水面も姿を消していきました。
水と緑の都市・江戸(1849〜1865年)
現代までに失われた水と緑

江戸城周辺を写真で追います

江戸城周辺
江戸城跡
東京今昔〜江戸城と皇居
江戸城の天守閣、本丸、二の丸、三の丸は、現在一般公開されている皇居東御苑にありました。本丸は、将軍が居住する江戸幕府の政庁であり、大奥や松の廊下などがありました。引退した将軍や世継が居住した西の丸は、現在の皇居内宮殿の場所にありました。

天守閣跡から見た本丸跡(2003年)

このページのTopへ