- 推し進められた近代化・西洋化の波
- 1868年の明治維新で幕藩体制は幕を閉じ、明治政府が成立。江戸は東京と名称を改められ、日本の首都となりました。急速な近代化、西洋化を目指した東京。文明開化は東京にどんな変化をもたらしたのでしょうか。
- 江戸から東京へ
江戸時代は、1867年の第15代将軍徳川慶喜の大政奉還により終焉し、江戸は東京に改められました。東京は明治政府の新しい首都となりました。京都、大阪も首都の候補に挙げられていましたが、改台の刷新や新都市の建設に必要となる大規模な土地として大名屋敷跡があることから東京が選ばれました。
明治政府は、日本の新体制をつくるために、それまで小さな独立国家たった藩を中央政府の下部機構である県に改めました(廃藩置県)。近代化にふさわしい都市にすべく、道路・公園などの都市施設の整備、交通機関の敷設、洋風建築の導入など、多くの試みが明治期の東京で行なわれました。

- 明治初期の西洋化計画
- 1872(明治5)年、銀座、新橋一帯で、3,000軒の建物を焼き尽くす大火がありました。この地区は、建設中だった新橋(汐留)駅と外国人が居住する築地居留地との中間に位置していました。外国人を迎えるための欧風化建物を整備、不燃化と道路整備を目的とする銀座煉瓦街計画が立てられました。
また、日本帝国の首都としてふさわしい威容をつくるために、中央官庁街をまとめて建設する日比谷官庁集中計画(1884〜87年)が立てられました。日比谷公園は、官庁集中計画と市区改正計画を経て1903(明治36)年に公園として整備されました。

- 日本初の鉄道は新橋〜横浜間に1872年に誕生!
近代化を促進するためには、物流港湾や軍港などを鉄道で結び、生産地と消費地をつなぐ物流ルートや軍事ル一トを早急に整備する必要がありました。
日本初の鉄道は、1872(明治5)年、首都東京の新橋と国際港湾の横浜間に誕生し、1885年(明治18)年には、山手線の起源ともいえる赤羽〜品川間が結ばれ、1925(大正14)年の東京〜上野間の高架線開通により山手線は結果として環状線になりました。
1892(明治25)年ごろには市街電車が導入され、20年後には1日約20万人もの人々を運ぶようになりました。
当初は物流を目的に整備された鉄道も、次第に市民の移動のために利用されるようになり、行動圏の拡大か進みました。

- 東京市区改正事業
- 明治時代には、日本都市計画制度の起源とされる東京市区改正(今日の都市計画を意味する)事業が計画されました。
銀座煉瓦街をはじめとする市区改正以前の計画は、すべて部分的な事業で、東京の全体計画の視点がなかったのに対し、東京市区改正条例は、江戸からの封建都市を、どのような東京につくりなおすのかという根本から、東京全体のあり方を考えようとした本格的な都市づくりのスタートでした。
- 東京市区改正事業の動き
東京府知事・松田道之の「東京中央市区画定の問題」構想
東京市区改正事業の発端は、第7代東京府知事、松田道之の構想「東京中央市区画定の問題(1880(明治13)年)」でした。
松田は、日本の首都である東京を、火災から守り、コレラなどの伝染病から住民を救済するためには、「中央市区」を画定(中央市区画定)、市街地改造を行ない、公共建築物と諸工場の立地、都市施設と交通手段の整備が不可欠であると主張しました。
市街地を改造する「中央市区」は、山の手と隅田川で囲まれた地域で、その後の東京市区改正の対象地域と比べると、小さな規模のものでした。
また、東京府は市区改正について、新聞広告により、広く各界の意見を求めました。
- 市区改正審査会(会長:芳川顕正)
内務省は、後任の芳川顕正府知事の上申を受けて、芳川を会長とする「東京市区改正審査会」を1884(明治17)年に設置しました。
芳川府知事は、当初ロンドンに東京の理想像を求めていましたが、やがてナポレオン3世の第2帝政期(1852〜70年)に行なわれたオスマンによるパリの市街地改造に着目するようになりました。
審査会では、束京市区改正事業のモデルをパリとし、政府の事業として実施されるべきであるとしました。
具体的には、一等道路はパリのプールバール(環状道路)、浅草・芝公園はモンソー公園、上野公園はブーローニュの森、皇居周辺はルーブル、チュイルリー公園にそれぞれ倣って計画されました。
さらに、道路(5等級区分と幅員)、鉄道(新橋〜上野間)、河川の開削、公園、市場、劇場の新設、および品川湾築港工事計画などが論議され、「復申文及び建議案」と「東京市区改正局設置建議」としてまとめられました。
- 東京市区改正条例と東京市区改正委員会
1888(明治21)年、府は市区改正審査会を受けて、「東京市区改正条例」を公布し、大臣の監督下に置く、東京市区改正委員会を組織しました。
東京市区改正委員会(委員長:芳川顕正)では改正事業の設計と、年度ごとに施行する事業を決定しました。
市区改正事業は、内務省の発案決定という形で、国の事業として位置づけられました。対象地域は、東京旧15区の約7割強が改正対象地域と定められ、道路は316路線の新設・改修、河川は新設8件、改修22件、外濠整理4件、さらに橋梁、鉄道、公園49ヵ所新設(約100万坪)、諸市場、屠殺場84ヵ所、火葬場5ヵ所、共同墓地6ヵ所などが計画されました。現在の日比谷公園もこの計画に基づくものでした。
最初の設計案は、道路をはじめとして詳細な計画案であったために事業遂行が遅れることから、再検討がなされました。
そして1903(明治36)年、必要最低限の道路に絞った新設計案が告示されました。この計画では、市街鉄道(路面電車)計画を実現させるために、その道路だけは拡幅したいという考えのもとに事業が遂行されました。その一方で、細かい道路や公園の計画は大幅に縮小されました。
市区改正事業は、以後1919(大正8)年に都市計画法が施行されるまで、31年にわたって継続され、その成果は道路123路線、延長175kmの幹線道路はほぼ完成し、旧市街地の15区内はほぼ路面電車の恩恵を受けることになりました。
さらに、公園32ヵ所、運河開設など7カ所、および上水道施設が完成しました。