関東大震災とその後

後藤新平と震災復興計画
1923(大正12)年9月1日、相模湾を震源に、関東大震災が発生しました。火災により東京の市域の約45%が焼失。下町を中心に大きな被害を受けた東京では、どのような復興計画が立てられ、実現されたのでしょうか。

縮小をくりかえした帝都復興計画

関東大震災発生
震災による延焼地域
1923(大正12)年9月1日土曜日、午前11時58分、相模湾北西部を震源とするM7.3の地震が発生し、東京をはじめとする南関東に大きな被害をもたらしました。
家屋の倒壊に続いて発生した火事が、被害を広げました。東京では134ヵ所から出火、このうち77カ所は2日後の未明まで燃え続け、市域の約45%にあたる約3,500haが焼失、東京は焼け野原になりました。
最も被害が大きかったのは、浅草区(台東区)・本所区(墨田区)・神田区(千代田区)で、約95%が焼失しました。東京市内の震災による死者は約58,000人にのぼり、その内訳は、約87%が焼死、約9%が溺死、約3%が圧死でした。
阪神・淡路大震災の被害との比較
震災翌日の神戸市長田町
関東大震災と、阪神・淡路大震災(1995年1月17日発生)の被害状況を比較すると、前者は地震後に発生した火事による被害が、後者は建物の倒壊による被害が、大部分を占めていました。
関東大震災においては、東京は焼け野原になりましたが、阪神・淡路大震災において最も被害が大きかったといわれる神戸市長田区の写真を見ると、新しい高層の建物は倒壊していないことがわかります。
関東大震災と阪神・淡路大震災の被害の比較
  死者 焼失面積 倒壊棟数 焼失棟数
関東大震災 約68,000人
(焼死57,000人)
3,500ha以上 254,499棟 447,128棟
阪神・淡路大震災 6,308人
(圧死約5,000人)
約66ha 209,043棟 7,608棟
帝都復興計画の推移
帝都復興計画
1923(大正12)年8月の加藤友三郎首相の急逝により、首相の命を受けた山本権兵衛は、大地震に続く大火災のさなかの9月2日組閣し、同年4月に東京市長を辞任した後藤新平を内務大臣として再登用しました。後藤新平は、帝都復興院総裁も兼務し、帝都復興計画の策定を始めました。
後藤は、世界に誇れる模範的大都市の形成を目指し、焼失区域だけでなく、焼失を免れた山の手・郡部まで及ぶ計画範囲で、道路一運河・公園・鉄道・築港などを含む総合的な計画を立てました。

当初伝えられた理想案では、品川〜千住問の幹線道路(後の昭和通り)の幅員を40間(約72m)とする計画をはじめとした雄大な構想か盛り込まれていました。後藤は、日本の財政の限界を考慮すると、理想論では早期実現の見込みがないことを十分に理解していました。
その後、復興計画は実行案として次第に縮小されていきます。
同年10月、甲・乙案の政府原案がまとまり、甲案を第一案として帝都復興参与会に提出。この2案は、事業費がそれぞれ12億9,500万円、9億6,300万円で、道路幅員、広場や公園の規模が異なるものでした。提出された計画案は、当初の理想案に比べ、40間(約72m)とされた品川〜干住間の幹線道路が24間(約44m)に変更されるなど、大幅に縮小されたものでした。
しかもその後の審議の過程で、計画は4億6,844万円にまで削減されていきました。主な変更点は、非焼失区域の事業廃止、東京築港・京浜運河・東京環状線などの別事業化、幹線道路の幅員と公園の縮小、広場の廃止、共同溝の全廃などでした。
帝都復興計画の挫折と成果
帝都復興計画の成果
理想案からは大きく後退したものの、震災復興事業は、帝都東京のライフラインや都市施設の近代化、鉄筋コンクリート建築による不燃化、市民の住宅の改良を目指して実行に移されました。
焼失地域の道路網の整備を重視するとともに、浅草、本所を始めとした10区に及ぶ65ヵ所、焼失地域の約43%に相当する地域を対象に土地区画整理事業が実施されました。
また、隅田川架橋群、隅田・浜町・錦糸町の3公園と小学校に隣接する52の復興小公園、街路に付随する橋梁と橋詰公園など、今日の下町地区の道路・公園などの骨格が形成されました。さらに都ひ市街地を十字に結ぶ昭和通りと大正通り(現在の靖国通り)の整備も行なわれました。
同潤会による住宅供給
同潤会による供給住宅の分布
同潤会は、1924(大正13)年、震災で大量に焼失した住宅の供給を行なうため、市民の義損金により設立され、住宅営団に事業が引き継がれる1941(昭和16)年までの18年間存続しました。
同潤会の罹災者向け住宅は、仮設住宅も含めて5,653戸を供給しました。
また、1926年から1933年にかけて、代官山や青山などに15団地、2,500戸の鉄筋コンクリート造のアパートメントハウスを建設。これらの同潤会によるアパートは、戦後の団地計画や住宅供給における実験的な役割を果たしました。


同潤会青山川アパートメント
同潤会
関東大震災前の東京市長・後藤新平
東京市長時代の後藤
東京市政調査会
東京市長の就任前、後藤新平は、1919(大正8)年に欧米歴訪の旅に出て、大調査機関設置構想を持ち帰りました。国際的な経済競争に勝ち抜くためには、海外と国内の調査を行ない、政策を策定することが必要との発想によるものでした。
大正9年12月、東京市長に就任した後藤新平は、大調査機関構想から転じた東京市政調査会構想に熱心でした。彼はその中で、「都市の発展膨張は、世界共通して現代文明の一大徴証である。都市は国家ではない。しかし国家の中枢神経は都市にあり、都市の盛衰は国家の盛衰となるという科学的知識のもとに自治を打ち立てることに市政調査会の使命がある」という趣旨を述べています。
東京市政調査会は、財界の安田善次郎(安田銀行の創設者)の遺志を引き継いで安田家が寄付を行ない、設立されました。この組織のモデルとなったのは、ニューヨーク市政調査会(現在の行政研究所「Institute of Public Administration」)でした。

東京市政要綱(8億円計画)
後藤は、計画期間は10年ないし15年の「東京市政要綱」(8億円計画)を発表しました。それは、都市計画道路・上下水道・公園・教育・住宅など、多岐にわたるもので、近代都市東京を実現するためのプランでした。
しかし、後藤の市長就任を要請した原敬首相が、大正10年11月に暗殺され、計画の実現に大きな打撃を与えました。都市計画は中央政府の仕事であり、束京市に決定権限は与えられていなかったため、政府の本格的な取り組みを伴わない計画の実現は、到底不可能でした。
原敬のあとを継いだ高橋是清内閣は7ヵ月で解散。それにつづく加藤友三郎内閣も、後藤の計画とは相容れない、消極的な都市政策をとり、8億円計画は縮小されていき、ほとんど実現されないまま、後藤は、震災前の大正12年4月に東京市長を辞職しました。
この8億円計画は、のちの関東大震災の復興計画の中核となりました。
当時の外国の街並み

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