東京大空襲とその後

戦災復興計画の行方
太平洋戦争(1941~45年)末期に東京は大空襲を受けました。終戦前に東京の戦災復興計画の検討がされていましたが、連合軍の占領下、計画は縮小されます。東京の戦災復興計画の変遷をふりかえります。

焦土からいかにして復興していったのでしょうか?

イントロダクション
世界中で戦争が行なわれていた第2次世界大戦期(1939~45年)に、日本が参戦した太平洋戦争(1941~45年)の末期において、アメリカ軍による東京大空襲がありました。これにより焼き尽くされた東京では、終戦前に戦災復興計画の検討が行なわれていましたが、連合軍の占領下で、計画の縮小を余儀なくされます。
東京大空襲
東京大空襲による焼失地域
東京大空襲は、1945(昭和20)年3月10日、深川地区(江東区)の爆撃から始まり、第2次は4月13日の東京西部地域、第3次は5月24・25日の山の手地域への空撃により、東京の市街地は焼き尽くされました。
戦災復興区画整理事業の成果
戦災復興区画整理事業の成果
昭和21年の都市計画では、東京の戦災復興区画整理の対象地域は約2万haでしたが、ドッジ・ラインなどによる見直しの結果、東京の計画は大幅に縮小され、昭和30年の都市計画では約5.000haへと削減されました。
さらに、このなかで実現した地区はわずかに1.652haに過ぎませんでした。
戦災復興区画整理が行なわれた主な地区としては、麻布十番・亀戸・錦糸町・蒲田などかあげられます。
東京大空襲

縮小された戦災復興計画

昭和21年の都市計画図
昭和21年の都市計画道路図
東京の戦災復興計画は、1945(昭和20)年8月15日の終戦を待たずに、検討が開始されました。同年3月10日の東京大空襲の1週間後には、内務省において復興計画の準備が始まり、終戦日の8月15日には調査・復興方針・事業方法の検討などが本格化していました。
1946(昭和21)年の戦災復興都市計画では、東京区部の人口を350万人に抑え、周囲にグリーンベルトをつくることが計画されました。
震災復興計画の経験から、区画整理事業が重視され、約2万haの区画整理区域と、幅員100mの道路7路線、幅員80mの道路2路線を含む放射・環状路線が、都市計画決定されました。
戦災復興計画の挫折 昭和30年の都市計画図
昭和30年の都市計画道路図
1949(昭和24)年に来日したドッジ公使は、戦後のインフレ終息に向けた経済安定政策(ドッジ・ライン)を実施しました。これとシャウプ勧告などにより、東京の戦災復興計画は大幅な縮小を余儀なくされました。
昭和21年の計画の幅員100m道路7路線、80m道路2路線などの高規格道路は大幅に見直され、1955(昭和30)年の計画は、25m級の道路が中心となっています。現在の計画は、昭和30年よりもさらに縮小され、しかも区部の都市計画道路の整備率は57%にとどまっています。

東京・港区の都市計画道路の変遷と整備状況を見てみましょう

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